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『AKB商法とは何だったのか』
書評:村上裕一



AKB48はなぜ批判されるのか? という疑問を発端に、「今のアイドル」や「今の音楽シーン」を語り尽くした『AKB商法とは何だったのか』。アイドルを批判も賞賛もせず、豊富な資料に基づいて日本の現状をじっくり考察した好著として各方面から評価されています。
この本書を読んでいただいた批評家の村上裕一さんによる書評が届きました。さやわか氏の前著『僕たちのゲーム史』を巡る対談も行なわれている村上さんですが、はたして本書はどのように受け止められたのでしょうか。


何かを書くとは、何かを書かないことである。それはすなわち、書かれていることが書かれていないことによって規定されているということである。







どういう切り口から読むかという問題はどんな本にもつきまとうものだが、さやわかにあってはそれが特に顕在化しているように感じる。彼の精力的な仕事ぶりからも明らかであるように、さやわかという書き手の本分はライターである。それは自己の表現者であるというよりももっとジャーナリスティックな職人気質を体現しており、そんな人物が本をものすにおいては、「何を書くか」よりも「何を書かないか」という抑制こそが重要な問題だった。ということは、書いていないものの存在感が、否定的な形ながら、強い存在感を持って訴えかけてくるということが、容易に想像されるはずだ。たとえば彼の処女作となる『僕たちのゲーム史』はまさにそういう本として、彼自身が通暁していないわけではない思想的な言葉や倫理的な興味を直接表現することを注意深く避け、資料によって語らせることによっていわば問題の輪郭を浮き上がらせようとしていた作品だった。その態度は、彼のことを知っているものからすれば、必然的に補完せざるをえないような欠如として見えるだろうし、彼のことをそこまで知らないものからすれば、するっと読めてしまう行き届いたガイドにも見えるのかもしれない。しかしながら、あらゆる歴史教科書が、ある意味では主観的と言ってしまってもいいような一つのバイアスの上に在ることを避けられないように、常に、何かを書くとは、何かを書かないことである。それはすなわち、書かれていることが書かれていないことによって規定されているということである。だからこの問題は決して個別的な問題ではない。しかしながら、その普遍的な問題をどれほど意識しているかには、人によって様々な態度上の差が見られるだろう。そしてさやわかはそのもっとも顕著な意識を持った書き手のひとりである。

ではこの新著『AKB商法とは何だったのか』において彼は何を書かなかったのだろうか。それは「僕自身のアイドルに対する熱意」(P9)であり、「それぞれのアイドルがいかに魅力的で、どんなに才能にあふれ、どれだけ真剣に活動しているか」「僕自身がそう思う(かどうか)」「そして、自分がどんなアイドルを好きで、どれだけ熱心に支持しているのか」(全てP252)ということである。

このような態度こそまさにそこで書かなかったことが書きたかったことなのだと示している――などと言いたくもなる。必ずしもそれは間違いでもなかろうが、しかし、事態はそこまで単純ではない。仮にそのような欲望を持っていたとしても、そのような目的を達成するためには、決してそのまま書くわけにはいかなかっただろうからだ。なぜか。それは彼が本書で提供したいソリューションと関係している。

ソリューションがあるからにはイシューがある。問題とはAKB商法が何だったかということだが、もう少し分かりやすく言えば「なぜみんな同じことをやっているのにAKB48だけが叩かれるのか」という問いである。本書ではこういう言われ方はしていないが、身も蓋もない言い方をすれば、目立ったからだ、としか言いようがないだろう。「似たようなことは誰もがやっている。しかしAKBはそれを握手会などの手法と結びつけて全面展開したために批判された。」(P206)

なるほど、歴史的に言ってAKB商法的なものは決して目新しくないし、しばしば音楽チャート的に全うなものとして引かれがちなミスチルやB'zとて言われるほど商売っ気がなかったわけではなく――つまり純粋に作品のよさだけでこのような数値を叩きだしたのだと言えるようなデータではない――、さらに言わば同時代の様々なアーティストですら事実上AKB商法をやっているではないか、と言うのは本書にて実証的に示されるところである。

しかし、だからAKB48も免責されるべきだ、という結論には、簡単にはならないようである。しかし、これはAKB48を批判しているということでもない。というか、擁護だとか批判だとか言う概念が重要になってくるタイプのゲームを彼はしているのではない。だからか、AKB商法について語る本書の言説は非常に奥ゆかしい。そこには一種の判断停止が、――逡巡がある。

このような逡巡は、もちろん彼がアイドルという文化圏全体を愛しており、かつ、そこに対してフラットな立場で臨もうとしているゆえの産物だというのはもちろんである。彼が本書で示すのはアイドルの多様化であり、そして多様化に対応した消費態度としてのDD(誰でも大好き)だ。印象的な言葉として先般AKB選抜総選挙で一位となった指原莉乃の「推しは変えるものじゃない、増やすものです」(P236)という言葉が引かれている。これはAKBの内部に限ったことではない。AKB48が気に入らないのなら、他のアイドルを好きになればいい。そうすれば、AKBの少女たちを犠牲にするような倫理的な悲劇を回避することができる。それがアイドルという文化全体に対する貢献たりうると、彼は考えているようにも思われる。これがソリューションである。そして、DDを推奨する以上、間違っても誰かを推奨するなどということを少なくとも本書でするわけにはいかない。特別な誰かは誰であってもよいというテーゼを張る以上、誰かに対して特別に振る舞うわけにはいかないのだ。

そんな、彼にとっては必ずしも特別な存在でもないだろうAKB48についての逡巡は、むろん、DDというテーゼに由来する部分もあろうが、しかし、それだけではないように思われる。むしろその逡巡は、――「DDで倫理的な批判を回避する」(P245)と述べながら、少なくともある時代までのAKBについて、薄々、それが不可避だったのではないかということに気づいているからではないか。

さやわかの言においてもAKB48は多様性のアイドルである。自らの箱庭の中に極めて多様な少女たちが多数存在し、しかも組み合わせることによってさらに様々な可能性に開かれていく。その上で、さらに上位のレイヤーに(あるいはポストAKBとして)存在するのが「アイドル戦国時代」だった。その戦国時代を肯定するのなら、AKBという箱庭もまた肯定されるべきだろう。しかし、そうはならなかった。分析的に言えばまだまだ色々それらしい理由が見つかるかもしれないが、先に述べた通り理由など本質的に「出る杭が打たれた」ようなものでしかない。しかし、その杭打ちがあったからこそ、冬の時代を抜け、戦国とも言われるようなアイドルの百花繚乱時代が再び到来したのだ。

だが、戦国と言うような闘争のイメージをさやわかは否定する。それはコミュニティの蛸壺化を招き、それにともなう特定のグループへの倫理的批判を呼び込むからだ。それはアイドル素としての少女たちを不必要に傷つける。リアルであることを売り物にするかのようである現代アイドル。その一つの典型はやはりAKB48の『DOCUMENTARY OF AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』だろう。戦争のような舞台裏と、闘争のような選挙競争で傷つき続ける少女たち。これに加え、AKB商法というレッテルでさらに彼女らは叩かれる。これではよくないのだ、と思うのは自然なことだ。他方で、そのよくなさを示すためには、傷が顕現している必要があった。私たちはすでにAKB以後の世界に生きている。

それはいいとかわるいとかいう尺度で計るべき問題ではない。ただ、AKB48が、あたかもキリストが贖罪者として振る舞ったがごとく、批判を全面的かつ集中的に集めてしまったことは、AKB商法という言葉を中心に考えれば間違いないことだろう。ましてや、ある一時期、その象徴的人格として振舞っていた前田敦子においては、歴史的にはともかくも、同時代的には異例なほどのバッシングを受けていたことは一方では記憶に新しいし、他方もはや遠い日のことであるかのようでもある。そんな少女たちの思い出を、本書は哀れんでいるように感じる。哀れみという言葉を、優越感や他人事の換言だと取ってはならない。それは愛の変形であり、その否定的状態である。だからこそ彼は「書かない」という手法を取った。

だが/そして――、そんな哀れみなしに、未来について考えることなどできるのだろうか。

  文=村上裕一  

AKB商法とは何だったのか

タイトル:AKB商法とは何だったのか
著者:さやわか
出版社:大洋図書
発売日:2013年6月3日
ISBN:978-4813022190
判型/頁:B6判/256頁
価格:1,050円



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AKB商法とは何だったのか