Special

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』
大野左紀子(著者)×宮田優子(大学講師)対談

宮田優子さんは、これまでの大野さんの著作に全て目を通されていて、その都度たくさんの助言を大野さんへとなさった方として、著者たっての希望で対談が実現いたしました。女性と、また女性同士を巡る諸問題についてのお二人の対話をお届けいたします。

Part.2
女性の場合は女優に限らず、どこか無意識に常に「女」を演じているという部分が多かれ少なかれあるものだから(大野)





宮 あと面白かったのは、映画の女性を観ると、私たちは登場人物の向こうにその人の実人生を見ようとするというご指摘です。『カレンダーガールズ』だったら、実際、裸の映像は出てるんですけど、その向こうに実はイヤだわとか裸になって大丈夫かしらとかいう挿話があったということに興味を持ちます。あるいは岩下志麻だったらこの人の実生活はどうなのかしらとか、と思いをはせてしまう。生身の人間が演じた時にそういうような、後ろのほうを見たいなっていう気持ちが湧いてくるのはどうしてなんでしょうね。

大 ええ、それは本当に。上手く演じられていればいるほど、私たちはいともたやすく虚構に騙されるというか、役柄に影響されて人を見るのだなと思います。私なんか簡単にそういうところにはまってしまうので、岩下志麻は怖い人だって思ってますし(笑)。実像って知りえないじゃないですか、結局は。だから役で演じている人とその女優が重なり合って、書き手の中でもどっちがどっちか一緒になっちゃってるなあという、読み手にそう思われてもいいやと。コラムのほうはあとからまとめて書いたんですが、役を通してしか見ることのできない実在の女優と、スクリーンの中でしか会えない虚構の役というものの、距離感を測ることの難しさは非常に感じましたね。

宮 男性の主人公をスクリーン上に出ていてもそういうことは起きないと思うんですけど、女性がそうしてスクリーン上に出てくると、どうしても実人生が透けて見える。たとえば『クロワッサン~』でも、ジャンヌ・モローの長い80年代の人生が重ねられていて、そこに今の主人公がいて、彼女の独善的であり且つ自己肯定感を持つ自信の表われがあるんだよって三層に書かれているような結論になってるんですよね。

大 はい。

宮 だから、女性独特のものか分からないんですが、スクリーン上の女性を書いたりする時にそういうことが出ざるを得ないように、やっぱり女性って人の生き方に興味があるのかなって。スクリーン上の話とは関係なく、この人って実際、あの人と結婚してたんじゃなかったかしらなんて(笑)、よくできるわね、とかそういうことを考えて観る客って多いと思うんですよ。スクリーン上の女性に感情移入するというより、どこかにツッコミを入れて観てるところがあるんじゃないかなって。

大 ありますよね。

宮 ありますよね、女性の場合は。男性の場合は私、そういうふうに考えたことないんですけどね。

大 男性の場合はスクリーンの中の役があり、一方に仕事をしてる男優さんがいるというふうに、演じている役と実像を切り分け可能なんだけれども、女性の場合は女優に限らず、どこか無意識に常に「女」を演じているという部分が多かれ少なかれあるものだから、そういうことを自覚してる女性であればあるほど、スクリーンの女性も実際の女優も、どっちも演じているんじゃないかとなってくる。

宮 うん。常に女性は演じてる。女を演じてるっていうことから来ることなんですかね。

大 じゃないかなと思うんですよね。演じてない「女」そのものは永久に分からない。

宮 あの岩下志麻さんでさえ演じてますもんね。

大 はい。それは女性自身にも分からないことです。

諦めもなきゃいけないというか、全て共感してもらえるわけじゃないし、自分の問題は自分で解決しなきゃいけないしっていう含みを入れたかった(大野)



宮 タイトルの『あなたたちはあちら、わたしはこちら』。これは、別の言葉で言えば「あなたはあなた、わたしはわたし」っていうことですよね。

大 (笑)。まあそうですね。これは凄く使い勝手のいい言葉で、この『ルイーサ』という映画の中では、死者に対する喪失感を葬るために、自分に向かって呟く「あなたたちはあちらに行ってしまったのだから、わたしはこちらで生きていかなきゃいけないんだ」って自分に言い聞かせる言葉なんですけれど、いろんなベクトルを持って使える言葉で。今わりとすぐに共感し合うとか、問題を共有、感情を共有するとか、つながって、絆みたいな感じがここんとこずっと、一番のトレンドじゃないけど何かにつけて出てくるじゃないですか。

宮 メディアではね。

大 そういうものを、どこかで切り分けていくが必要があるということは漠然として思っていました。宮田さんが聞きたいのは、なぜこのタイトルなのかということですか?

宮 まるで自己肯定感を思わせるような。自己肯定感っていうのは、たぶん近代の前、女性の問題が登場する前はなかったような言葉だと思うんです。いわゆる、女性運動とかなんとかそういったものがブラックボックスを開けてしまって、女がいろんな生き方をすることができるようになってきてから、私はこれでいいのかしらって思うことが多くなってきた時に初めて、よしこれでいいんだって、やってきたことがこれでいいんだって、自分を納得させるために出てきた言葉の一つではないかなっていうふうに思うんです。それで、大野さんも自己肯定感が欲しかったのかなと思って。

大 なるほど。もしこういう本を書いてたとしても、30代40代では選ばないでしょうね、この言葉は。もう少し否定的というか、簡単に自己肯定にいっちゃいけないというのがずっとあったから。だけど、まあいいかなと。一回そういうふうにしてみよう、でも開き直るわけではなく、自己肯定感の裏側には、一種の諦めみたいなものもあって。

宮 そうかな(笑)。

大 あると思いません? 諦めもなきゃいけないというか、全て共感してもらえるわけじゃないし、自分の問題は自分で解決しなきゃいけないしっていう含みを入れたかったんです。でも、何このタイトル?と思う人はいるでしょうね。どういうシチュエーションでこのセリフが出てくるのか、そこを「何だろう?」と思わせたいというのもありました。宮田さんは自己肯定感っておっしゃるけれども、もっと寂しいセリフとして捉える人もいるかも知れない。

宮 結局自分がみんなと切り離されて一人になった時に自分のこと考えて、今までこういう選択をしてきたのは私、周りはいろんなことを言ってきたけれども、その中でも決めたのは私。その結果あるのが今の私、というふうに考えますね。一人でいる時に、みんなはみんなだけれども、私はこういった選択をしてきて、今があるのかなっていうのを、ある年代になると思ってくるのかなって。その年代にならないとこの言葉は分からないのかなっていう印象を受けましたね。

大 そうかも知れませんね。これ以外にはやっぱりつけようがなかった。ある年代以上の人に響いてくれればいいかなっていうのは当然あるので。宮田さんはそんなふうに上手く説明して下さるけど(笑)。そこまで理解してくださる方はなかなかいないです。

私は『旅情』がとても好きで、キャサリン・ヘプバーンの潔い生き方というか、若い時なんかこういうふうな大人になれればいいなって憧れた時期があったんです(宮田)



宮 この中で大野さんが一番気に入ってる章っていうのは。ここは読んで欲しいなっていう章は。

大 『疑惑』の章は割と気に入ってます。それから「異物と向き合う女」の『少年は残酷な弓を射る』と、『イヴの総て』。清田さんは、宮田さんと感想についていろいろ話されたりしたんですよね。

宮 いやお互いにマイペースで行きましょうってことで、話しませんでしたね。

大 こういうことは私が聞くから‥‥とかはなかったんですか。

宮 ひとつだけ、精神分析の言葉を大野さんが使ってらっしゃるから、私はそこは触れないからっていうことは言いましたね。

大 (笑)。このあと清田さんに言われるかと思うと胃が痛いですよ。

宮 いえいえ、そんなことはないと思いますよ。いや、私が読者として気になるのは、本が綺麗過ぎるというか、主人公を解読してしまっているというか、遊びがないんですよね、さっきも言ったとおり。そこが、ちょっと窮屈かも知れないかなって感じがします。読み進めていくと、毎回きっちりきっちり書いてあるから、ずっと読むのは疲れるかも知れない。だから飛び飛びで、今日はここ読んで、明日はここ読んでってやって、映画観たいなって気分になるというような本かなという印象を私は受けましたね。

大 連載してる時は間が1カ月あるので、その時点その時点で書ききったっていう手ごたえがないと終われないんですよね。観る、書ききる、インターバルっていうそのリズムが自分の中で出来ちゃってたので、それが圧縮されて本になると、読み手としては確かにしんどくなるっていうのは分かります。そのしんどさを和らげるために書いたコラムがますます隙間を埋めて(笑)。

宮 そのちょっと軽いコラムがね、結構力が入っているという(笑)。これでもかこれでもかと来るので、軽いコラムの割には結構重量感があるんですよ。

大 編集者の五十嵐さんには「間にコラムがあっていいですね」と言われたんですけど、自分でイメージしてたものよりも長く、張り切って書いてしまっています。だから読む側になると辛いっていうのは、確かにねぇ……。

宮 書き手としては楽しく書いてるんだろうなと思うけど。

大 楽しかったです(笑)。

宮 楽しかったと思います。構成も考えずにサーッと、言葉が次の言葉を誘うという書き方で書かれてて。でも読み手はさて一章読んだから休もうかと思ったら、もう一冊あるような感じがして、非常に重量感のあるコラムだなという印象を受けました。これも是非皆さんに読んでいただきたいですね。重量感のあるコラムで、コラムだけ読んでも大丈夫ですっていう感じもしますから。コラムから入っても大丈夫、そういう本の構成になってる感じがします。

大 普通の映画批評だともう少し、どんな作品かなと読者が思う隙間を残すんでしょうし、評論になってくると今度は他の映画との比較や作家論になったりっていうところで、枠組みをもっと大きく作るから、長くてみっちり詰まっててもいいんでしょうけど。こういう書き方って、あんまりないのかも知れないですね。

宮 目配りが利いてるんじゃないでしょうか? 最近私、少女文化というか乙女文化、ダブルヒロインものというか、そういうものに関心があるので読んだりしてるんですけど、その中で山崎まどかさんだったかな、ちょうど乙女文化についていろいろ、「オリーブ」とか何とかについて書かれてる方がいて。その方の言葉があちらこちらに引用されてるんです。例えば、いくらいい小説でもファッションがダサかったら、もう次のページを捲る気力がなくなってしまいますっていう有名な言葉を書かれてるんですね。大野さんもファッションのことを書かれていて、その辺に目配りをされているっていうか、ファッションを通して映画のビジュアル的なものを伝えてらっしゃるから、一層映画を観たような錯覚におちいるし、また観てみたいなという気持ちになるんです。そういう男性にはなかなか書けないような映画のビジュアル的なものを書かれてるのはいいと思います。いかに美術さんとかが苦労されてるのかっていうところが見えてきますしね。一種の映画論っていう感じがしますね、このコラムを読むと。

大 ありがとうございます。どうしても本論では物語と心理中心になってて、映画に対する向かい方としては、ちょっと歪というと変ですけど、的を絞り過ぎてるなとは思います。絞らないと書けないものがあるから、他の要素をかなり削ってしまいました。本当は音とかカメラワークのこともきちんと書ければいいんですけど。

宮 それだと一つの映画についてしか書けませんもんね。

大 そうですね。宮田さんがこの中でご覧になったのは……。

宮 半分くらいですかね。私は『旅情』がとても好きで、キャサリン・ヘプバーンの潔い生き方というか、若い時なんかこういうふうな大人になれればいいなって憧れた時期があったんですけど、大野さんは骨を強調されているという(笑)。

大 (笑)。コラムではね、ファッションというよりキャサリン・ヘプバーンの佇まい自体が素敵だなあと思って。

宮 スマートな感じの生き方をされてる方だなぁって感じがするんですよね。非常に参考になる生き方だし、ああいうロールモデルの方が女優さんとしている、そういう人を見て育っていく人は幸せだなと思って。活動もアメリカとかアフリカとかでいろいろされてるけど、そういうことを直に知って、常にメディアが伝えるっていうことをしている国は幸せだなっていう感じがしましたね。日本にはそういう文化があまりないから、ちょっと寂しいなって。



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