Special

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』
大野左紀子(著者)×清田友則(大学教授)対談

清田友則さんは大野さんとは旧知の仲で、これまでにたくさんの助言を大野さんへなさっており、またときには多様な議論を交わしながら様々な影響を受けた方として、宮田さんに続いて著者たっての希望で対談が実現いたしました。女性を巡る諸問題についてのお二人の対話をお届けいたします。

Part.1
全体の趣旨やちょっとした細部の観察など、映画を観なくても完結する形での読み応えを感じる部分もありました(清田)





大 清田さんはこの本で扱った映画のすべては観ていらっしゃらないということでしたが、とりあえず読まれた感想をお聞かせください。

清 大野さんは大学の授業で映画を見せて、そのコメントをフィードバックするという授業をやられていますよね。僕も大野さんと同じ大学にいた時に同じような授業をやった経験がありますから、まず教育的な観点からお話しします。 日本の美術教育で僕が違和感を覚えるのは、受験が凄く重要な意味を持つ点です。そこで問われるのがデッサン力。大野さんの文章はデッサンを読んでいる印象を受けました。ずっと活字で育ってきた人と、活字か映画かみたいな人たちとの違いを感じたんです。

大 冒頭にいきなりデッサンみたいなイラストが出てきますからね(笑)。

清 大野さんはもともと彫刻をやられていたので、大学入学の際にはデッサンで受験されたんですよね。この扉絵も……。

大 受験のデッサンが基盤になっていますので、芸大生や美大生から見れば、予備校の匂いがプーンとしてくるような絵だと思います。そこが自分にとってはちょっと厭でもあるし、もっとカッコいいイラストを描ければいいですけど、こういうふうにしか描けないので。

清 そこで伺いたいんですが、たとえばデッサンには対象があるわけじゃないですか。それを見ない読者は、つまり映画の本編を観ずにデッサンだけでそれなりの評価をするようなものです。それってどうなんでしょう。もちろん作品を見るにこしたことはないけど、たとえば観ようにも観られない映画もあります。シネフィルでは、観てない者に語る資格はないと言われますが、その辺りはいかがでしょう。

大 基本的には、この本を読んで個別の映画に興味をもって、実際に映画を観て欲しいと思っています。そして観た後にまた、時々本を開いて読み返して考えてもらえたら嬉しい。映画も観るタイミングや年齢によって感じ方が違ってきたりするので、その時は私が書いたものに違和感を覚えても、時間が経ったある時にふっと、この著者の言ってることがなんとなく分かったかなって思う時もあるかもしれない。そこでまた読み直したり映画を観たりする。そういう存在としてこの本があったらいいなと思っています。でも読んだ人にいろいろ聞いてみると、「この映画は観てみたいと思いました」と言う人もいたけれど、読み物として面白く読んで読書で完結してしまった、そこから映画に行くかどうかはまだわからないという人もいました。それはこの中で私がしっかりデッサンしちゃってるところがあるからでしょうね。それで観た気になってしまって、そこから映画のほうには行きにくいのかも知れない。先程対談した宮田さんから伺ったのはそういうことで、もっと想像させるところや隙間があったほうが、映画鑑賞のほうへは行きやすかったんじゃないかとも思いました。

清 なるほど。絵の世界と文章の世界を同時にやられている大野さんだからこそ、違った媒体を通じて同じ描写をやろうとしている。これまでだったら二つの媒体はある種等価みたいなリアリズムで考えられていた。でも、本来二つをまったくの別物と捉えるならば、紹介という形でどんなに正確に描写してもそれぞれが独自の世界を持つ。二つはずれるというより、そもそも違う世界に連れ込むということなので、そういう意味では紹介とは反対のベクトルになるんですね。 でも全体の趣旨やちょっとした細部の観察など、映画を観なくても完結する形での読み応えを感じる部分もありました。もともと、日本のリアリズムって文学ならいわゆる小説じゃなくて、正岡子規が唱えてた写生に由来しますよね。

大 文章に、対象である映画とは別個の完結したものがないといけない、ということはもともと私の中にあります。もちろん映画を観て欲しい気持ちはとてもあるけど、映画紹介、映画ガイドの本ではなく、ひとつの作品をモチーフとして、それをどのように描写し、どういう世界を言葉で作り上げられるかを自分でやってみたいということが強かった。作品に沿って書きながら、そこにどう自分なりに陰影を刻んでいくか。その刻み方で、作品とはまた別のあるリアルさを感じさせようとしているのも見てもらいたいです。

清 その発想は僕が今まで読んできた映画批評の中にはありませんでした。やっぱり批評になっちゃうんですよ。写生やデッサンのレベルに敢えて踏みとどまって、その中に内在的な形でこうであるべきだとかこうなんだという主張をデッサン線の中に描けるような文章はなかなかなかった。結局、あらすじを伝えるだけなんです。僕らが授業で実践しているのは、観た人も退屈させることなく敢えて観てない人たちに向けてあらすじを話すこと。作品について話す時って、そういうことが問われるじゃないですか。

大 そうですね。よくネタバレかどうかが問題になりますが、それは映画からなにかショックを受けたいとか、見たことのないものを観たいというところに関心が集中しすぎてるからだと思います。映画は物語だけではなくいろいろな要素で構成されているけど、そこから新しい解釈を出すとか作品論、作家論といった批評ではなく、見えているものを写し取りつつも、私のフィルター自体が同時に浮かび上がってくるような書き方をしています。実際のデッサンに問われるのも、本当はそういうことですね。再現性が重要視されますが、ただ写真のように正確ならそれでいいかというとまた違って、そこにはある種の演出が求められたり。受験ではそれがパターン化しがちですが。

清 その辺が、たとえば予備校的な、つまり何年も浪人するとその癖が抜けなくなって大成できないということになってしまうのかなあ。

大 それはよく言われますね。ただアーティストになった人でも昔の手癖みたいなものは抜け切らなくて、何を描いても見えていたりすることはあるんですけどね。

清 その辺りに男性批評家が目指すべき道と女性批評家が目指すべき道の違いがあるのかもしれません。そういう点で興味深かったんです。



吉永小百合みたいな人は私から見ると化け物みたいで、彼女がどんな映画に出ても、その映画のことを書こうとは思わないわけですよ(大野)



清 僕が好きな言葉に、たしか平山郁夫が学長時代に東京藝術大学入学式で述べた祝辞があります。どんな内容かというと、君らの中から天才は5年に1度か10年に1度か現われる。だから残りの君らはその天才の礎になることで我慢してほしいというんです。 でも、おそらくこれって天才じゃない人たちに向けた祝辞だと思う。ネガティブな意味でないと仮定すると、独創的な文章ではなくてもそれはそれで見る意味があるということなんじゃないかな。それをさっきの映画を観る際の男性と女性に当てはめれば、男性的な天才としての批評家になるのか、それとも隣にいる見ず知らずの、おそらく同世代の女性にその後に何か知り合うきっかけを与える批評家になるかという問題ですよね。だから、大野さんがスーパー銭湯に行かれるのもおそらくそういうことだと思います。

大 そうかも(笑)。

清 見ず知らずの他人だけど、なぜか連帯感がある。普通のおばさんだし、若くない人生のピークを過ぎた人たちで、その中に天才は含まれない。自分だけが突出するわけでもなくお互いが寄り添えるような人々。

大 30代くらいでこういうものを書こうとしたら、ちょっとヤマっ気を出して、誰も考えつかなかったような新しい解釈で書いてやろうとか、他の作品との比較とか作家論をやってみようとか考えただろうと思います。ある意味、男性的に。でも、自分のスタンスはそうじゃないなと。普通、映画を観るというのは、現実を忘れるために物語に没入して、ヒロインに気持ちをのせたりしたいわけじゃないですか。そうやって、ヒロインと一緒に笑ったり泣いたりしたいというのが、映画を観に行く人の基本的な感情としてある。私もそうで、一観客として物語の中に没入して、そこからとことん自分の視線をヒロインに寄り添わせて、その物語世界を自分も生きるように描き出していきたい、そういう強い欲求が連載を書く時からありました。それは扱ってる主人公たちが年を重ねた女性であり、自分もそうだということが一つあります。年をとることは、特に女性の場合は社会の中でプラスの価値にはなっていませんけど、それも含めて。

清 最近だったら『母と暮らせば』の吉永小百合みたいな人なんて、日本にはいるわけないじゃないですか。60、70になっても劣化しないし、寄り添わない人。だけどこの本に出てくる人たちは劣化という点で僕にも通じるものを感じるし、割と身近にいるような気がします。

大 吉永小百合みたいな人は私から見ると化け物みたいで、彼女がどんな映画に出ても、その映画のことを書こうとは思わないわけですよ。でもそうじゃなくもっと自分に近い感じの、リアルに年をとっていく主人公たちについて、中年の女の一人として映画を観る人たちに直接、この映画ってこんなふうに面白くてこのヒロインはこうでこうでってしゃべるように書きたいと思った。

清 社会が求める中高年女性に対する価値観には、何か矛盾するものがあるように感じます。それは社会的な強制ではなく、いわゆる「空気」と呼ばれるような、みんなで共感することで、それが強制になってしまうような同調圧力ですね。吉永小百合のようにならなければならないという目標は、言ってしまえばその辺には絶対にいない人を目指さなきゃいけないというタイプの同調圧力。つまり、スーパー銭湯の隣にいるおばさんじゃなくて、アンチエイジングの象徴としての吉永小百合さんに寄り添おうとしている。 でも、そういう映画の中には自然と友達になれるその辺のおばさんってあまり出てきません。でも、大野さんの本で取り上げているのはそういうその辺のおばさん。要するに、すっぴんの人たちですよね。

大 はい。

清 でも、すっぴんって何なんでしょう。そもそも、女性は「すっぴん」として本当の隙を出すべきなのかどうか?

大 すっぴんとは何か?というのがそもそも分からなくなっていますよね。もちろんここで扱ってる女優でも、化粧をしていないような役もありますけど、それは演じているわけで、化粧しようがしまいが女優はまず演じてるわけだし、普通の女性でも、何かしら女を演じている部分がある。

清 すっぴんも含めてみんなが化粧してるってことですよね。

大 そういうことなんですよね。

清 「女は裸でさえ脱ぐことはできない」という名言がありますが、それはどんなに年をとっても付きまとう問題だということですか。

大 そこから抜け出すことはなかなかできないんだけれども、だからと言って強迫観念にとらわれたように吉永小百合じゃなきゃいけないのかと。頂点がそれじゃなきゃいけないかのような幻想を作ってるのは、メディアです。テレビとか雑誌とか見ていると頂点が一個しかないかのように見えるけど、それ以外のいろいろな表現を見ていくと、例えば映画の中にいろいろな頂点の作り方が出てくるし、そこでもっと重心もあちこちにバラして楽な感じにしたいなというのは、みんな思ってると思うんですね。



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