Special

『あなたたちはあちら、わたしはこちら』
大野左紀子(著者)×清田友則(大学教授)対談

清田友則さんは大野さんとは旧知の仲で、これまでにたくさんの助言を大野さんへなさっており、またときには多様な議論を交わしながら様々な影響を受けた方として、宮田さんに続いて著者たっての希望で対談が実現いたしました。女性を巡る諸問題についてのお二人の対話をお届けいたします。

Part.2
映画を通じて少し迂回しつつ、自分の母親も女として対象化して見ることができるようになることには、私は割と希望を持ってるんです(大野)





清 頂点にいるべき人とは、どういう意味で頂点なのか。それが成立するのが吉永小百合の他にいないのならそれはやっぱり物語の中でのヒロインだし。つまり、ヒロインに年を取ったなりの美なり何なりが求められている。 それを芸術上の問題としてではなく等身大の観客まで含めた問題として捉えたらどうでしょう。身近にいる現実のすっぴんな母親とスクリーンの中に出てくるすっぴん、いわゆる寄り添いたい人たちとの間に差はあるのか。物語を通じて報われるものがあるとしても、果たしてそれを現実に投影させることは可能なのか?

大 娘の目から見た母親の実像があまりにも娘を縛りすぎてしまっていて、そこに物語も何も介在する余地がない、ただ現実を見せられてるだけ、という状況は実際にあると思います。

清 中高年が主人公だけどそれ以外の年齢層をターゲットにした映画を作ろうとすれば、それは映画だけの特殊な世界にはならないと思うんです。私は誰で、身近な家族にとってどう見えるかが、自分とは何かという実存的な問題よりも優先される。

大 例えば娘がね、母親を女として見たくないということがあると思います。母親としての役割を離れたところで、一人の中年女としての姿を直視したくない。それは将来の自分の姿かもしれないから否認したいということも娘の側にある。そこに映画のような物語でワンクッション置くことで、そのヒロインは現実の母親とは一旦切り離されて、どこかの中年女性の姿になる。そして、その中年女性と母親はどこか似ている、もしかしたら同じ地平にいるのかもしれないと。つまり映画を通じて少し迂回しつつ、自分の母親も女として対象化して見ることができるようになることには、私は割と希望を持ってるんです。

清 たしかにその希望は映画や、もっと身近なテレビドラマによって実現されているのかもしれない。僕が授業で映画を教える際にこだわりをもって観せ続けている映画の一つに『マディソン郡の橋』があるんですよ。

大 ええ。

清 10年くらいずっと扱っていますが、なぜか若い学生の拒否反応が増えているんです。あの映画って、もともとそういう拒否反応を示す子供の視点で撮った作品じゃないですか。

大 そうですね。

清 だから拒否反応は織り込み済みで、それが解けていくところがあの映画の凄みのはずなんだけど、それでもやっぱりまったく理解できないとか嫌悪感が先に出てしまうという人が、男の子だったらわかるけど女の子の中でもマジョリティを占めるようになったんです。たまたま受講生がそうだったのかもしれないけど、これって何の影響なのかなと。

大 最近は、ちょっとでも道徳的に外れることに対して、拒否反応を示す学生が多くなりましたよね。不倫なんかでも、どんなことがあったとしてもやっちゃいけないことなんだっていう。要するに親という立場の人間は、家庭の中の固定的役割から一切外れてはいけないと。そういうところは保守化しているのかなと思っています。

清 僕からすると、それは後知恵的な説明のような気がします。普段観ているリテラシー教育としてのテレビドラマや漫画を通じて培った無知からくるものではなく、学んだものからくる嫌悪感なんじゃないかな。たとえばこれから視聴率がまだまだ上りそうな朝ドラは、主人公が娘でとり囲む脇役が渋みとか凄みを出せばそれでドラマが成立するという構成ですよね。そこに出てくるのって、凄く安定した母親じゃないですか。

大 朝ドラのような日本のファミリードラマって、吉永小百合が優等生的な母親像しか体現しないように、描き方が結構役割固定的に感じるんですね。母親に期待するものを過剰に大きくしているというか。娘がちょっと跳ね上がったりというのはあっても、一旦家庭に入った女は理想の母親像からあまり離れず、吉永小百合を頂点としたところにほとんど収斂されていってる。バリエーションがないと思います。

清 本来なら今おっしゃったような固定した役割があるということを学ぶことでリアリズムを獲得すべきだし、現にリアルな世界は存在している。なのに、自分を守るために敢えて固定した中高年の女性像が求められているということは、この本でも触れられていました。「自分が20歳の頃には、50歳の自分がどうなるのか全く想像がつかなかった」なんて言っちゃう。 でも、想像力を全く伸ばさないような自発的な自己規制にも意味はあるんですよね。見たくないものを訓練によって見ずに済むのだからある種のアンチエイジングになる。 これは教育上の凄いジレンマなんですが、僕には「30年後にいい大人になって欲しい」という教育上の目標があります。でもそれが学生には全然ピンと来てないんですよ。目先の就職先ばかり気にしてしまう。だから理想の職業が女子アナだという生徒に「でも女子アナは30歳定年だよ」と言っても、ネガティブに響かないわけです。 「その先を考える余裕もないし、考えたくないし、だったら考えなくていいんじゃないか」という学生にどうやって向き合うか。だって迷惑なことを伝えるわけじゃないですか。

大 いやがられますよね、ものすごく。

清 でも、そもそもいやがられないことが可能なのか、とも思います。これまでは失敗例ばっかりだったんですが……。大野さんにはその辺りのことをお聞きしたいですね。

大 自分もかつてそうでしたが、今の女子学生を見ていても、年をとっていくことはマイナスとしか受け取られていないです。せいぜい30代くらいまでで、結婚してしまったらもういいんだみたいな、どこかにあらかじめ限界を作ることで精神の安定を図ろうとする傾向は強い。「いや実はそうじゃないよ」というこちらの言葉の説得力もあまりないというか、先生はその年まで行ってしまって、もう安心だから言えるんだろう、こっちは先が見えないんだからそんな言葉は受け入れられないと。だから間に何か物語を介在させることで、少しほぐしていくことはできないかなと私も授業の中で映画を使ったりしてるんですけど。



言語化することで救われるというのなら、今のSNS社会ほどあるの種言葉に依存してる時代は他にないわけですよね。しかもそこには男女差がある(清田)



清 学生の間では、敢えて蓋をするのが処世術的に正しいという考え方はありますか? 結局のところ教育には二通りあって、経験しないことに対して知識などによってあらかじめ準備することを重視する考え方と、やっぱり経験が大事なんだという考え方です。 それぞれ別物だから各人の選択が優先されるべきだと言ってしまえば、経験する前にいろんな実例を見るのはよくないという居直りも可能です。でも、大野さんは映画を見せる時に、たとえば主人公は若くなければいけないというような設定をしなかったわけですよね。だから僕にとって凄く斬新だし、よくこの企画が通ったなと思うんです。

大 (笑)。

清 一方でこういうのを求める人や、タイトルだけで飛びつく人も確実にいるだろうけれども。

大 大学だと、興味を示さない学生のほうが多いですよ。おばさんが主人公の映画って、地味そうだよなって。まず今の学生、映画観ないですから。『マッドマックスFR』観た人も100人のうち2~3人しか手が上がらない。話題になっていても行かないし。ただ、こういう内容でも読んでみたいという学生は少数だけど女子でいて、すぐに反応を返してきたりするし、そんなものだと思うんですね。芸術系大学でもそうだから、一般だったらもっと蓋してる部分が多いと思う。

清 アート映画という括りもあるけど、でもそういうちょっと意識高い人が果たしてスーパー銭湯へ行くかは微妙ですよね。だとすると、本当に聞いて欲しい身近な人には届かないというもどかしさがある。どの辺りを妥協点にしているんでしょう?

大 私、現場ではやっぱり、教える者と教えられる者は必ずすれ違っていると思っています。教えられる側は一方的に押しつけられてると思ってるし、言われてることはすぐにはわからないし、教える者は、だけどそれでも言わなきゃいけないと思って話してて、結局その場はほとんどすれ違うことになってるんですよ。でもそのすれ違っていたものが、時間を経ていつかその学生のところに戻ってくる、その手紙が届く時期は人によっては3年後だけど、ある人にとっては20年後だったりということなので、それくらいのスパンで考えないと教育なんかに携わってられないでしょって思いますけどね。

清 ずっと親の役割を演じるのもやっぱり疲れるから、疲れている人が主人公になるわけですよね。そうすると、読み手を自分と同世代だけに絞りたいという気持ちはありますか。

大 同世代に贈りたいという気持ちは強いですが、たとえば私の中でも……今56歳だけど……18歳の時の自分がゼロになっているかというと、引きずってるものがあるんですね。一人の女性の中に、50代もいれば10代20代も残っているから、じゃあ10代20代の学生にも届かせることはできないわけではないと。受け取ってくれる人は限られてくるけど。こういう本では、学生に語りかけるような語りは有効じゃない。ごく自分自身の問題としてその作品を受け止めて、それを私はこのようにデッサンしていると見せるしかないので、こういうことを私たちもできるよねって思ってもらえたら一番いいです。なんかこんな感じだったら描けるとか。デッサンだったらトレーニングすればできるようになるじゃないですか、誰でも。

清 そうすると敢えて技術の面だけに焦点を当てて、感情とか私的なものを交えずにデッサンだけを通じた若い人たちとのコミュニケーションに絞り込むような手もあるんですかね……。敢えて人生訓だとか、経験を積んだ女ならではの言葉に落とし込まないという手法も、それはそれで成功していると思うんです。

大 そういう一般化とか啓蒙とか、それは結局自分の言いたいことのために作品を利用してるみたいで厭なんですね。映画という表現の中に没入していくと、思いがけずいろんなところに繋がっていく道筋があるんだということを、学生には知ってもらいたいです。

清 技術指導だったら経験は年さえとれば誰でも積めますが、技術がなければ教師になれないわけですよね。でも、みんなで上とか下とかじゃなくて最終的に寄り添い合うという平等性にもっていきたいというのはどうなんだろう。同じように共感できるようになるというのは……。

大 そういう共感はなかなか困難です。でも言葉にして解きほぐすことで、自分の中でよくわからなかったものが少しは見えるようになるとは思います。大学で見ていると、モヤモヤを言葉にすることで救われてる女子が時々いて、凄い量のレポートを書いてきたりするんですね。なので言葉化することの重要性はいつも言っています。

清 言語化することで救われるというのなら、今のSNS社会ほどあるの種言葉に依存してる時代は他にないわけですよね。しかもそこには男女差がある。

大 SNSは常に他人の視線があって、他人からのレスポンスを気にしながらの言葉だから、本当に自分の言いたいことはセーブしてるだろうし、その輪の中でどういう言葉を使ったら自分の位置をキープできるかという、もの凄い神経戦みたいなものがあるんじゃないですかね。そういうことを一切気にせず、自分の思ったことを十分に書くことはやってないんじゃないかと思います。機会もないし。

清 その神経戦的なものが映画のモチーフになってもいい。つまり、ヒロインが抱える問題を同じようにその人たちも抱えているという意味では、同じ世界を生きているということですよね。ここで出てくるムカつく専門学校の女子生徒とも繋がりえるはずだからこそ、お互いに反感を持ってしまう。ダブルヒロインの話も、お互いが対立しあってるけど、最終的には仲良かった人が決裂するという話にはならないじゃないですか。つまり、みんなで仲良くなってホモソーシャルな世界を作りあげる。 でも、やっぱり女性であることで許されるものはあるんだし、あらねばならない。あるいは今はないからという、倫理的であり政治的な共感。そこから出発するという点に敢えてこういう本を世に出す意義があるし、この本を通して映画をどこまで理解したかということ以上に、どんな反響あるのかを見てみたいと思うんですよね。



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