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『あなたたちはあちら、わたしはこちら』
大野左紀子(著者)×清田友則(大学教授)対談

清田友則さんは大野さんとは旧知の仲で、これまでにたくさんの助言を大野さんへなさっており、またときには多様な議論を交わしながら様々な影響を受けた方として、宮田さんに続いて著者たっての希望で対談が実現いたしました。女性を巡る諸問題についてのお二人の対話をお届けいたします。

Part.3
西洋と日本という文化的な違いを超えても、抱える問題は同じなのかもしれません(清田)





大 ダブルヒロインもので、たとえばお互い違うタイプだけど力を合わせていくという物語と、表向き共闘しつつも根本部分で対立する女の物語がある。たとえば『疑惑』ですが、最後のほうで互いにキツい言葉の応酬をやってるんだけども、どこか妙に寂寥感も漂っている。決裂して喧嘩して終わるのではない余韻があります。このあたりは語りたい女性は多いと思う。

清 精神分析的に言うと、そういう背後でその構図を安定化させる存在は男というか父親でなければいけません。大野さんもこの中でお父さんの影響を書かれていますが、一方でお母さんのことについてはあまり触れられてない。お父様について触れたら、お母様も読むだろうから、一言くらいはお母様についても触れたほうがいいんじゃないかってこちらも少し心配したくらいですが、その辺はどうなんでしょう。やっぱりお父さん的な存在があるという前提を持っていますか? それとも自分自身がお父さんの役を引き受けようとか。

大 私の場合、子どもの頃はあまりにも父の存在が大きくて、母はいつもその後ろに隠れていました。父が亡くなってしばらく経ってから母という人がクローズアップされてきて今、少しずつ見えてきつつあるんですけど、それはまだ自分の中で言葉にできない感じです。ただ、「ああこういう女性だったのか」みたいな発見は、いまだにあるんですね。母をどう見るかというのは、私のこれからのテーマかもしれません。

清 ベストセラーの『家族という病』の著者である下重暁子さんは、横暴なお父さんの後ろで何も言えないお母さんに対する憎しみが凄くあったといいます。この本をベストセラーの書評を書く授業で学生たちと読んだら、みんなが一様に嫌悪感を示していたんです。

大 それは何に対してですか?

清 『家族という病』には著者の思い込みが一方的にダラダラ書いてあるんですが、「そういう人もいるかも知れないしわからなくもないけど、こんなものが売れていいのかという変な道徳観による意見が多かったですね。 もちろん単純にマーケティングの成功で売れたのかも知れないけど、父親と母親との和解という問題が(もしかしたら母娘問題もそうかもしれませんが)、最終的に決裂、切断するのが良いと示したからウケたのかもしれない。信田さよ子さんなんか和解という感じじゃなくて、おそらく映画的モチーフとしては和解ってことになってるんですよね。

大 下重さんの本の中で和解は出てくるんですか。

清 出てこないですね。娘が「結局、みんな離れられない」って諦めてる。お母さんのことが好きだし。清々しく別れて、そういう勇気を持った人の本が売れているわけです。 西洋と日本という文化的な違いを超えても、抱える問題は同じなのかもしれません。映画の『ピアニスト』などのような母娘問題は、日本にもあってもおかしくないですけどね。

大 母と娘が和解するというよりも、壮絶な喧嘩をして、娘たちがみんな母親を捨ててみたいなモチーフのほうが、リアルに若い人には響くんじゃないでしょうか。ちょっと前のアメリカの映画で、メリル・ストリープが強権的な母親の役を演じた『八月の家族たち』。2年くらい前でしたか。

清 メリル・ストリープは『母の眠り』という映画もやりましたよね。レニー・ゼルウィガーが娘でキャリア志向なんだけど、「もう末期なんだし母の介護をしろ」とキャリアを絶たれていろいろ葛藤する話です。そういう時の母親像は大抵、ケーキを焼いて、バザーとかボランティアをやるような女性として描かれます。つまりは日本以上に保守的なお母さんたちですよね。ママ友以上にみんなが結束した婦人会は日本もあったんですよね。

大 なるほど。

清 うちの母がわりとそうだったんだけれど、今ではそういうのはなくなりましたよね。良妻賢母という言葉は西洋からの輸入だけど、今では死語でしょ。

大 まあそうですね。

清 ヨーロッパはそうじゃないかもしれないけど、アメリカはこういう将来社会を変えなきゃいけない、変わらなきゃいけないという時に、敢えて抗リアリズム的な説得力を表象する。敢えて類型を提示するというか。

大 類型というのは、割とジェンダー規範に則った感じということですか。

清 ジェンダー規範じゃなくてもいいですけど、とりあえず物語にしやすい形で。たとえばこの中だったら『イブの総て』のベティ・デイヴィスは良い役だったり悪い役だったりするけど、三行でわかるような類型的な性格ですよね。 問題はどれも類型を通じて人間関係が崩れることで、類型同士がうまい具合に整合性を持つわけじゃないってことですよね。すると反デッサン的あるいは予備校的なデッサンで、つまりみんながわかり合っているという誤解があるからこそ成立するディスコミュニケーション。

大 でもそれって悪夢みたいな話ですよね。実際にコミュニケーションが成り立っていないにもかかわらず、成り立ってるかのように誰もがふるまうっていうことでしょ。

清 でも実際対立とか亀裂から最後は和解にいくようなベタな話もあるし、その描き方の階層はいろいろあると思うんです。西洋のほうが先進国で女性の地位がとか、映画の質もフランスが上質だという考え方を捨てて、とりあえず生の人間関係から始めたい。血が出るのは一緒だという前提で、映画的にいいとか悪いという逃げ道を閉ざして、現実の世界と人間関係と映画的な、もしくはそれ以外の世界を敢えて強引にいっしょくたに封じてしまう。

大 それは映画批評じゃないけど、そういうことをやってみたいと思って書いてるところがありますね、私は。

清 そうなんじゃないかと思っていました。凄く面白いし、大野さんならではというか、つまりどこかの制度とか技術から踏み出て、別の世界に一人で踏み出した人にしかできないことなのかなって。大野さんはいわゆるレッテルやフェミニストといった言葉のどこにも当てはまらない。

大 そう言っていただくとうれしいんですけど、映画についてはそもそも素人なので、映画批評を書くには実はいろいろなものが不足しています。で、アートをやめた時に思ったのは、一度すべてまっさらにして、自分の体験し考えたことだけを手がかりに、あまりジャンルを考えず、できたらジャンル横断的に、自然とこっちからあちらのジャンルに書いてる内容がまたがってた、みたいに書けるのが理想だと思っていました。

清 そこででも単純にいいものが書けたらいいということだけじゃなくて、おそらく他の人にもそれを通じて勇気や何かを書きたいという気持ちを持ってもらいたいという思いが込められているんでしょうね。資格や実績、業績がなくてもやれるよ、と。

大 そうですね。

清 でもやっぱりほとんどの人はやらないですよね。受け身の立場でそれを享受して共感する。つまり、ダブルヒロインのような寄り添うという相互的な状態にはなかなかならない。

大 それは、どんなに私が何もないところから自分の体験だけを手がかりに、誰にでも分かるような言葉で書いてますよ、こういう書き方だったら書けるんですよって言ったって、実際に書くか書かないかでまず大きな違いはあります。ただ何か書かないと片時も落ち着いていられないという体験が、一回でもあればわかると思うんですけど。そういう場合は、やっぱり書き出していくと思う。

清 きっかけがあれば、ということですね。学生を見ていたら女性の方が断然表現するし、コミケでも来場者は男性メインでも執筆者は女性が多いじゃないですか。なのにある程度年とると規範のルーティンに入ってしまって、そこでは表現がすっぽり抜け落ちている。これはなんとかしたいですよね。

大 そういうルーティンに入って、何らかの役割に満足してたのに、50代になってなんかやりだす人もいるんですよね。



女同士だと、本音を言ってるようで、実は巧みに本音を言ってなかったりして、でも楽しそうにしゃべってるとか、難易度が高いのです(大野)



清 時々50代が一番楽しいという女性の声を聞きますが、大野さんはそれを実感しますか?

大 はい。私は40代のはじめの頃が一番苦しくて、その頃にちょうど一般の方が対象の美術の教室を持っていたんですが、そこに来てたのが50代前半の女性たちで、「先生、50過ぎたら楽よ。先生くらいの年が一番つらいのよ。きついのよ」って言って下さっていて。それで何年か経ってから飲みに行った時に、「あの頃の先生、ちょっとしんどそうだったね」って言われたりして、やっぱりわかるんだなと思いました。その頃はまだ、この先楽になるなんて思えないと思いながら過ごしてましたが、50代半ばに差し掛かるくらいで、こういうことかなぁと時々わかるようにはなってきていますね。でも煩悩から解放されたわけではないけど。

清 煩悩から解放されたら女として終わりだと。

大 いやでも、「女として」という、その「女」はなんなのか。

清 そうですよね、そこが問題なんですよね。でも、「女を降りるのか」という話にもなるじゃないですか。

大 降りるも降りないもなくてですね、「男/女」というカテゴライズ全体から、降りるというより、何となくちょっと横にずれるというか、ずれたところに隙間があって、という感じですよ。

清 同窓会で自分と同じアラフィフの人たちを見て、こんなにクラスメイトの女の子たちは饒舌だったのかと驚きます。少なくとも言葉のレベルでは表現欲があるし、参加率も女性のほうが多いし、何かしゃべらずにはいられないという気持ちを感じます……男はむしろ酒を飲むほどに寡黙になっていって「そうだよね……」とか小津安二郎の世界に入っていくんですけど。

大 50代の女性はある意味、一番大変な時期ではあるんですけどね、親の介護があったり、子どもがなかなか親離れしないとか。だけど、あるところでタガが外れ出すと思うんですね。そうすると、好きなことをやらないと損だというふうになります。

清 大野さんが寡黙な人なのかそうじゃないのかという論争もありますが。

大 論争(笑)。プライベートでの私は、あんまりしゃべれないほうだと思います。友達としゃべってても聞き役に回ることが多い。自分がしゃべる前にちょっと考えてると、話はもう別にところに行っている。女性同士の話ってどんどん話題が移り変わっていくことが多いので、そのスピードにまずついていけない。考えてしまうんですね、こういうこと言うとどうかななどと。

清 それは女性に限らないのかもしれません。いわゆるおじさん化、おばさん化の生理的な理由は前頭葉の収縮だと「ほんまでっかTV」では言われていましたね。

大 そうなんですか(笑)。

清 ホントかどうかはわかりませんけど。生物学的な劣化にそれこそあえて身を委ねて、縮んだ前頭葉を活かすというおばさん的な方向。そういうことって可能ですかね。

大 可能というか、やっぱり半分は男なんですよね自分が。昔はアート業界は男が多かったし、男を内面化してきた部分があったので、女同士の会話についていけないのかも。

清 何か身のあることしゃべらなきゃバカにされるとか。

大 というより、女同士だと、本音を言ってるようで、実は巧みに本音を言ってなかったりして、でも楽しそうにしゃべってるとか、難易度が高いのです。

清 その辺は僕もぜんぜんわからないですね。

大 本当に親友一人、二人くらいとしかしゃべらないですね。それ以上人がいるとしゃべらないです、私。

清 でも本人は無意識かもしれないけど、言外の含みも含めて脳が駆動しているというなら、OSの熱量的には向こうのほうがはるかに高度な言語活動をしてるのかも知れない。

大 そうですね。

清 一人になって文章を書くモードのほうが楽だもん。

大 たしかに。

清 そういうおばさん同士の井戸端会議的なおしゃべりの要素では、男性的な自分がプラスに働くこともあると思いますが、それをマイナスととらえる見方はありますか。たとえば50歳になって楽になったとか。

大 そう、かつてはそういう女性的なものをついマイナスととらえている自分がいたんですけど、逆にタガが自然に外れていって、解放されて楽になることはあると実感しています。そして本当にやっぱり、みなさん見ているといろいろ大変なのに、立ち直りとか異様に早い。切り替えも。私はちょっとしたことで引きずって、三日くらいぐじぐじしてるんですけど、パッパッパッと切り替えてやっていく人が、50代の女性は多いなと思ってます。

清 映画の妙というのはモンタージュで、全然違う場面が急に出てきても不自然なはずなのに整合性を帯びてしまう。そんな感じで、たぶん当座で話してるおばさん同士の間では話は飛んでないはずなんですよね。

大 そうですよね。たぶん前頭葉が縮んでいっても、そういう脳の使い方してるので、逆に女性のほうが長生きしていつまでも元気ということになるんですね。

清 縮んだままだと生きながらえないんで、共同作業を楽しんでいるというわけですよね。『おひとりさまの老後』で上野千鶴子が言ってることはまさにそういうことです。僕にやれるかといったらやれないですが、それを楽々と暮らす女性はホントに楽しい老後だと思うんですよね。

大 介護施設に行ってみると如実にわかります。男性が孤立してて、おばあさん同士はわりと活発にしゃべってる。

清 では、孤独な営みとしての読書行為の限界を感じますか? つまり、読書ってさせられるものじゃないです。その間、井戸端会議は中断しなきゃいけない。読書は井戸端会議のための準備とか予習という位置づけなのか。どうなんでしょう。

大 予習?

清 共有する題材があって、それを通じてってことですよね。

大 この本をそういう材料にしてもらえるんだったら、それはそれで凄くいいですね。

清 普通は映画をみんなで一緒に観て、その後にお茶でしょ。敢えてその間に挟まるわけですよね。

大 たしかに、そういうおしゃべりの材料にはなれないかもしれないけど。ちなみに、うちの母は映画はほとんど観ていないのに、これを何回も読んでるらしいんです。今日は絵だけをじっと見てたとか、いくらでもしゃべるんですよ、この女の人がどうのこうのとか。そういう意味ではいわゆる読書という感じじゃないけど、パラパラ読んではなんかしゃべったり。お茶のお供みたいなものでもいいなって(笑)。

清 そういう点では、フォントの小さいコラムの部分を僕は材料として楽しみました。これはいいアイディアですね。

大 こういうコラムを挟むことで、やわらかい感じにしたかったんですよね。

清 この辺りが過渡期なのかわからないけど、最近は記憶力が鈍ってきていて。新しい固有名詞を知る苦しみがあります。なんとかできないのかとは思いますよね。

大 ほんとに固有名詞多いですよね。これは別に映画ガイドじゃないので、むしろもっと抽象化して書くとか、もっとイラスト増やすとか、そんなこともありかもしれないですね。

清 大野さんはおそらくずっと、感動を誰かと分かち合いたくなる状態を望んできたのに、やってこれなかったたんじゃないかな。その後のお父さんとのくだりは一人の人生として共感するし、敬意を表したい気持ちがありますね。 やっぱり大野さんは、いつでも誰とでもすぐ友達になれたり見ず知らずの他人から銭湯で話しかけられたりするようなおばさんではおそらくないからこそ、スーパー銭湯に行くんじゃないかな。こちらもそれなりの葛藤を覚えつつ、でもそれこそ私はこちらあなたはあちらで、お互いを視覚的に見ることができない。映画という視覚的な媒体を通じて個人の中のあちら側やこちら側が垣間見えた気がしたのは、率直に嬉しいです。

大 ありがとうございます。これは5冊目なんですけど、今までの本の中では一番夢中になって書けた本です。これまではアート関連の本にしても、どこかまだ固さがあったと思います。ずっと、自分はアーティストという位相から降りて書く人になったのだということを意識して書いていたんですけど、この本ではそういう構えもとれてきたと思います。今日はありがとうございました。



 2015年12月、九段下にて収録 / 大野左紀子、清田友則

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あなたたちはあちら、わたしはこちら



タイトル:あなたたちはあちら、わたしはこちら
著者:大野左紀子
出版社:大洋図書
発売日:2015年12月7日
ISBN:978-4813022633
判型/頁:B6判/188頁
価格:1,600円+税



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